「新潟県における広域的予防接種制度を考える」        (2001.8.9)
見附市 はしもと小児科  橋本尚士

 平成6年に予防接種法が改正され,ポリオ以外の予防接種は全て個別接種が原則になりました.従来より実施されていた集団接種は廃止されました.しかし,法律改正を受けてもすべての市町村が対応できない恐れがあるので,集団接種が「みなし個別接種」として例外的に残されました.
 人口の多い市町村は財政力があり,接種可能な医療機関があるので,平成6年の法律改正直後に個別接種に移行しました.しかし,人口の少ない市町村では,法律改正後7年を経過した現在も個別化していません.新潟県は人口が240万人なのに市町村数が111もあり(全国3位です),人口5千〜1万人くらいの町村がたくさんあります.こうした町村の多くは集団接種のままです.1年に1度しか接種の機会がないので,体調不良などで接種を受けられない場合には1年間待たなければなりません.心臓病,てんかん,気管支喘息などの基礎疾患を持っているお子さんは,集団接種で十分な対応を受けることは不可能です.
 このようなお子さん方にも接種の機会を設けなければなりません.そこで,住民票のある市町村以外の医療機関でも個別接種を受けられる制度が必要ということで,広域的予防接種制度が創設されました.この制度の創設にあたっては,個別接種を既に実施していた市町村間で接種料金の違いが問題になりました.もともと接種料金を低く設定した市町村では,広域的予防接種の料金が高いと,この制度に参加できないということでした.
 私達小児科医は,個別接種の普及を急ぐ必要があること,接種希望者の不便,不都合の解消を急ぐ必要があること等を勘案し,接種料金については大幅な譲歩をしたうえで,広域的予防接種制度を創設するように新潟県に申し入れました.このようにして,新潟県では全国に先駆けて広域的予防接種制度の運用が開始されました.この制度では,医療機関が新潟県医師会と契約を結び,新潟県医師会はこの制度に参加を表明した市町村と契約を結ぶという契約形態になっています.契約の文書では,接種希望者が契約医療機関を訪れた場合には,市町村の許可なしに接種を受けることができます.接種券,問診票などの書類一式は新潟県医師会から医療機関に配付されており,医療機関窓口にいつでも用意されています.

 しかし,現実にはいろいろなトラブルが起こっています.以下に述べることは,私が最近経験した事例です.
  A町に住民票のあるB君がいます.A町はいまだに集団接種です.しかし,B君は気管支喘息で入退院を繰り返しており,麻疹の集団接種の機会を逃してしまいました.B君は2歳になろうとしています.現在,日本全国で麻疹が流行しています.B君のお母さんは,新聞で,麻疹が流行していること,麻疹は死亡率が高いことを知り心配になりました.A町の役場に出向いて,「とても来年まで集団接種は待てないので,個別接種の接種券の交付をして欲しい.」と言いました.A町は集団接種のままですが,広域的予防接種制度に参加しています. A町の予防接種担当者はB君のお母さんに,「集団接種が原則である.」「接種券の交付は特別の事情がない限りまかりならない.」「そんなに個別接種を受けたければ自己負担で受けるしかない.」と説明したそうです.困り果てたB君のお母さんは,「この子は気管支喘息で入退院を繰り返していて,集団接種の日には発作が出ていて入院をしていた.とても来年までは心配で待てない.今後も集団接種の日に体調がよいとは限らない.」と30分以上も涙ながらに訴えてやっと接種券をもらったそうです.
 C市に住民票のあるD君がいます.C市はいまだに集団接種です.D君はお母さんの仕事の都合で実家のあるE市に住んでいます.もともとアトピー性皮膚炎で当院に通院していました.1歳になったので麻疹ワクチンの接種を受けたいと思ったのですが,仕事の都合で遠く離れたC市に集団接種の日に連れていくことができませんでした.そこでC市に電話で問い合わせました.C市も広域的予防接種制度に参加しています.C市の担当者は「広域的予防接種制度があるにはあるが,その制度を利用するにはC市の許可が必要である.接種依頼書がないと接種を受けることはできないので,市役所まで取りに来い.」と言ったそうです.D君のお母さんはわざわざ仕事を休んで,接種依頼書を取りに行ったそうです.

 さて,それではA町やC市の担当者の対応は正しいでしょうか?
 A町の担当者の「集団接種が原則である.」という説明は誤りです.平成6年に改正された予防接種法では個別接種が原則です.「集団接種が原則」なのは,法律の例外規定をとっているA町の制度に過ぎません.国の法律がA町の制度よりも当然優先するので,「個別接種が原則であるが,A町ではやむを得ず集団接種のままである.しかし,広域的予防接種制度で法律の主旨に沿って個別接種を受けることができる.」というのが正しい説明です.「接種券の交付は特別の事情がないかぎりまかりならない.」という説明も誤りです.法律では個別接種が原則なのですから,「広域的予防接種をどうぞ御利用ください.」というのが正しい説明です.「そんなに個別接種を受けたければ自己負担で受けるしかない.」というのも誤りです.納税者として必要な税金は納めているわけですから,国の法律に定められ,この主旨を忠実に運用している広域的予防接種制度を利用できるのは当然のことで,自己負担を支払う必要など全くありません.
 C市の担当者の「接種依頼書がないと接種を受けることはできないので,市役所まで取りに来い.」という説明も誤りです.広域的予防接種制度の利用にあたってはC市の許可を得る必要はないですし,契約医療機関には必要書類はあるので,わざわざ依頼書を取りに行く必要は全くありません.広域的予防接種制度の契約書にはそのような文言はどこにも書いてありません.C市の担当者は「E市に現在お子さんがおられるのであれば,広域的予防接種制度の契約医療機関で個別接種を受けることができます.E市であれば,○○医院や△△病院が契約しているので,どうぞ御利用ください.接種券などの必要書類は医療機関に準備されています.」というのが正しい説明です.
 それでは,なぜ,A町やC市の担当者は広域的予防接種制度の存在を住民に正しく教えないのでしょうか?集団接種であればわずかの予算で済みますが,個別接種は高くつきます.集団接種しかしていない市町村に住むお子さんが広域的予防接種制度を利用すると,それだけ予算が食われてしまうので,教えないのです.予算が食われるから広域的予防接種制度の存在を教えないというのも間違っています.A町やC市はこの制度に参加を表明し,契約しているのですから,広域的予防接種の利用が増えたら補正予算で対応すべきです.A町やC市の担当者は広域的予防接種制度を知っていますが,その内容を十分に住民に伝えていません.公務員は公的サービスの存在を住民に教えるのが当然だと思うのですが,それをしません.もし, A町やC市の担当者が広域的予防接種の存在を教えず,あるいは教えても十分な便宜を図らずに,今回のように精神的苦痛や意図的不便を与え,この結果B君やD君が個別接種の機会を失してしまって麻疹に罹患し,不幸にも死亡したり後遺症を残した場合には,いったい誰が責任を取るのでしょうか?

 このような事例はA町やC市に限ったことではありません.私はこうした事例に遭遇するたびに,新潟県福祉保健部健康対策課に報告を行ない,市町村が正しく広域的予防接種制度を運用するように指導を求めています.しかし,その指導は不十分なもので実効は上がっていません.
 A町やC市が集団接種を止めて,予防接種法に定めた通りに個別接種に移行してしまえば,A町内やC市内の医療機関で個別接種を受けようが,広域的予防接種制度を利用してA町外やC市外の医療機関で個別接種を受けようが料金は同一なので,予算を食われるからという理由で広域的予防接種制度の存在を教えないということはしなくなります.
 それではなぜ,A町やC市は個別接種に移行しないのでしょうか?
 個別接種にすると予算が嵩むという理由はまやかしです.地方交付税交付金は個別接種をすることを原則にして算定されています.国は法律に定めた行政行為については,その予算をA町やC市に配分しています.「ひも付き予算」ではないので,その使途はA町やC市の判断にゆだねられています.A町やC市では個別接種のための交付金が道路や橋に化けているのかもしれません.
 A町やC市には接種可能な医療機関がないので,住民には不便であるから個別化しないという理由もおかしなものです.今は道路が発達しているので,子育て世代の人々は自家用車で移動していまい,市町村の境界をひょいひょいと跨いでしまっています.新潟県では人口の少ない市町村が多く,住民は用を足すためには日頃から市町村外の施設を利用しています.医療も例外ではありません.市町村外の医療機関を利用することは不便でもなんでもなく,ごく当たり前になっています.

 A町やC市が個別接種に移行しない本当の理由は次の通りだと思います.
 もし,A町内やC市内に接種可能な医療機関があれば,住民は近くて便利な地元の医療機関を利用します.個別接種の予算がA町内やC市内の医療機関に落ちれば,その一部は法人住民税としてA町やC市に還流し,地元の雇用にも繋がります.A町やC市に医療機関がない場合には,せっかく個別接種のための予算を組んでも,そのお金はA町外やC市外の医療機関の収入になってしまいます.A町やC市のお金がよそに流れてしまうことになります.たばこは地元で買いましょう,公共事業は地元の業者さんで,タクシーは地元のタクシー業者さんで,と感覚は同じです.しかし,子どもの生命や健康にかかわる予防接種を,ほかの事業や予算と同列に考えていいのでしょうか?個別接種を受けることができない子どもにとっては迷惑な話で,何のメリットもありません.これを解決する手段としては,市町村合併が最も有効だと思います.

 私が大学病院で新患外来を担当した時の話です.患者さんが私の前に現れました.もう歩くことができず,車椅子でした.診察すると,肌は真っ白,おなかをみると少しだけ発疹がありました.口のなかにわずかにコプリック斑がありました.診断は麻疹でした.麻疹ワクチンは未接種でした.この時点で既に急性循環不全でした.透き通るような肌がそれを物語っていました.直ぐに入院してもらいましたが,その晩ショックで死亡しました.蘇生に全く反応しませんでした.麻疹の死亡例を経験した小児科医は口をそろえて「蘇生に反応しなかった,なすすべがなかった.」と言います.この通り,麻疹は非常に恐ろしい病気です.
 こうした不幸な事例を減らさなければなりません.予防接種法に定めれた通りに,どこの市町村に住んでいようが,希望する日時に,希望する医療機関で接種を受けることができる社会体制が構築され,それが正しく運用されることを強く望みます.
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