7)おもちゃについて
奥川 敬祥
今回、「子育てとおもちゃ」という題目で書くようにとのお達し。世におもちゃに関する考えは無数にあり、いずれが正論というようなこともない。気ままに独断で自分の思いを述べてみたい。
小さい頃は、よくおもちゃで遊んだものである。中でもっともこころに残ったおもちゃ、愉しかったおもちゃ(あそび)は何であろう?人それぞれだと思うが、この件について当院の若手?女性従業員10人にアンケートを試みた。その結果思いがけず、おもちゃ(あそび)はその人となりをよくあらわしているということ、あそび(遊び方)やどんなあそびが好きであるかということは、その人そのもの、その人の生き方(仕事のやり方や出来具合)を大変よく表しているという事に気付かされた。
小児科医としては、特に赤ちゃんのおもちゃに対して求めることはなんといってもまずは安全性である。おもちゃの安全性については、大きさ、形態、塗料、強度などについて詳細な規定があり、安全と認定されたおもちゃには、ST(セーフティー・トーイ)マーク、CEマーク(世界で最も厳しいといわれるヨーロッパの基準)などが付いている。今、安全性の問題で3400もの遊具が毎年全国で公園から撤去されているという。管理コストの問題や事故が起きたときの管理責任の問題が原因というが、何でもかんでも危険だという理由だけで禁止するのは、危険だから外では遊ばせるなという極論に聞こえてくる。「安全性」ということの本質を見据える必要がある。
わたしの小児科医院にあるおもちゃはとにかくすぐに壊れる。おそらくどこの医院でもそうだと思う。これもおそらくは企業戦略の一つであろう。どこか壊れなければ新しいおもちゃは買ってもらえないからである。個人で使うおもちゃはもう少し長く耐久できるのであろうが、業務用はやはり、使われる頻度や使われ方が半端でない。丈夫なのは木のおもちゃである。壊れても接着剤などで簡単に修理できる。木のおもちゃの中で最も基本的で代表的なのが積み木である。ある調査によれば、室内のおもちゃの中で子どもが最も飽きずに長く遊ぶのは積み木である。積み木やブロック遊びは幅広い年齢で遊べ、工夫次第でいろいろな遊び方ができると思う。
「人はパンのみのために生きるにあらず」とは聖書のことばであるが、現代の食生活に何一つ不自由のない日本であれば、さしずめ「何のために生きるのかよくわからない」というのが、今のこどもたち(大人たち?)の状況をよくあらわしているかもしれない。それだけ余裕があり、何の危険も、飢餓も寒さも不自由も、土いじりも、病気も?ない現代の都市型生活の中で人が本来の持っている「生きる力」を失っているのではないか。本来文明の利器(道具)は、そのつらく苦しい生活の中から人間が、自由と幸福を求めて編み出した知恵と叡智の結晶であったはずである。しかし現代ではその道具(玩具)は、はじめから用意されたように生まれたときからそこにあり、お金さえ支払えばいくらでも手に入れることができるようになっている。
子どもの頃、おもちゃはめったに買ってもらえなかった記憶がある。沢山のミニカーを持っている友人をうらやましく見ていた記憶がある。そこで自分でいろいろと工夫していろいろなおもちゃを作った記憶がある。その中で心に残っているのが竹と釣り糸で作った弓矢である(あまり武器のおもちゃはお勧めではないが・・)。それまでは拾った竹竿で適当に作っていたのだが、あるとき祖父が近くの竹薮で切ってきた竹を火であぶり上手に曲げて加工し、美しい弓矢を作ってくれたことは、今でも心に強く焼き付いている。工夫次第でこんなに上等なものができるのかと。その作っている過程を今でもありありと思い出せる。道具を使うよりも、道具を作る作業を経験する方がもっと大きな発見があるかもしれない。おもちゃで遊ぶよりもおもちゃ(あそび)を創りだす才能の方がおもしろいかもしれない。
人の性格には古くからいくつもの分類方法がある。エニアグラムもそのひとつである。その歴史は古く、およそ2000年前のアフガン地方で生まれ、イスラム教スーフィー派へと受け継がれてきた。エニアグラムは門外不出の秘法とされ、イスラム王朝では外交の手法のひとつとしても使われてきた歴史がある。私個人としては、「深層心理の中で何を(9つの欲求)求めて生きているか」を基準として人を分類した学問(社会心理学)であると理解している。9つの欲求とはごく単純に言えば「完全、奉仕、成功、特別、知識、安全、興味、強さ、平和」の9つである。前述の女性従業員へのアンケートでは、各人のエニアグラムによる性格分類とその個人の好きな遊び、好きな理由とがかなり相関していて興味深かった。あそび(おもちゃ)に求めるものは、その人が人生に求めるものを現しているように思う。
当然であるが、同じおもちゃでも年齢によってその遊び方には大きな変化がある。また年齢によって遊び方も随分変わってくる。2歳(terrible age)児は実に素直でありわがままでもある。自分のやりたいことはするが、関心のないことには見向きもしない。親が口やかましく指図すると、とたんにやる気をなくして、好き勝手なことをする。しかし3歳半ころを過ぎると、だんだん聞き分けがよくなってきて、他者を精一杯受け入れようとする。4歳になると、友達と協調して遊べるようになり、周囲に自分を適応させる努力をし始める。親はこの頃から、こどもにできるだけ多くのことを教え込もうとし始める。実は、この時期が子育てでちょっと危険な時なのかもしれない。白いキャンバスには何でも自由に描くことができるが、色に染まったキャンバスには描けるものはだんだんと限られていく。「まっすぐありのままを観て受入れる力」と「ことばで表現して納得してしまう力(実は錯覚)」の違いがみなさんにはわかるだろうか?
われわれ小児科医も日常診療の中では、ささいなことであれ日々新しい発見がある。新しい発見ができなくなったとき、過去にのみにすがるようになったとき、わたしたちは成長できなくなる。せっかく小児科医になったのであるから、こどもたちのようにいつまでも白いキャンバスになれる自分でいたいものである。
おもちゃ(あそび)を通じて、こどもはさまざまな能力を身につけていくことができると思う。ルールを守ってあそぶゲームあそびやごっこあそびでは、協調性やコミュニケーション、社会性を身につけるきっかけに。まだうまくできない遊びで失敗して悔しい思いをして自分に対して憤る、そのときには、自分の怒りや感情をコントロールしていく力を。遊びの中で決まりを作ったり、創意工夫をして、その成果を実感するときには、創造力やひらめきなどを。そのほか、人に共感する力、鳥瞰図的な観点、セレンディピティーを導くセンス、直感的に視覚的にバランスよく美しいものを想像する能力など。また絵本を読んでもらうことで、言葉や感性を豊かにし、想像力や言葉による表現力を育てることができる。こどもたちに「あそび」以外でそのような体験や訓練ができる場が他にあるであろうか?「あそび」はまさに人生の道場である。
外で思いっきり遊ぶこともまた、大切なことである。外で思いっきり遊んでいるこどもは、そうでないこどもと比べて何倍も自分への自信や物事に対するやる気があるというデータがある。外でおもいっきり遊んでいれば、自殺するこどもはいなくなるのではないだろうか。
ひとつのことに集中してじっくり遊べることは大切な能力である。ひとつのことをじっくりやって、その中に本当の味わいや醍醐味を見つけていくこと、長年やって初めて見えてくるものを味わうこと。そのことがとても大切であると思う。ひとつのものを知っているというのにはいくつもの段階があり、その奥は際限なく深い。わかったと思った瞬間からまたその奥が見えてくる。ひとつのあそびやスポーツに打ち込めば、そのよいことも悪いこともすべて受入れて、より大きな観点から物事を見ることができるようになる。自分さがしとか、自分にもっとあった職業に就きたいとかという理由で就職した会社を途中で辞めたり、かといって何をするでもなく日々を過ごすニートと呼ばれる若者が増加している。本当にすべてがもっといい職業なんてあるのだろうか?まずは目の前にある仕事を受入れ、じっくりやることの方が大切なように思う。じっくりとやってその中におもしろさや難しさ、そして自分のやりたいことが見えてくるのではないのか?その先の奥深いところに、その醍醐味が隠されていることをこどもの頃に体験すること。そのことがとても大切であると思う。こどもの頃にそのような体験したことがないのに、大人になって初めてそのような体験することは難しいのではないか。小児科医になってもうすぐ20年であるが、まだまだこの先に何かが待っていてくれるだろうか?
親に一緒に遊んでもらうことは、こどもにとって一番の喜びだ。昔から遊び継がれてきたあやとりや折り紙などでもそうしてきたように。人は親にしてもらったことをいつかまた、自分の子に同じように伝えていく。「あそび」も親から子へと受け継がれるのだと思う。
4ヵ月健診のとき、若い母親たちに面と向かってこんなことをいうのはちょっと照れくさいので、健診のパンフレットのおわりには次のように書き添えている、「赤ちゃんをいっぱい愛してあげてください。愛された分だけひとは、将来、ひとを愛すことができるようになるのだから・・」と。
 おわりに。よくわからないことを書いてしまった。「おもちゃと子育て」・・難しい題目である。ご容赦を!